今でこそ当たり前となった渓流のミノーイング。しかし、今からそんなに遠くない昔、渓流でルアーと言えばスピナーがその代表格だった。そこにまさに彗星の如く現れたのが同社の「チップミノー」。渓流ミノーのルーツとも言うべきこのルアーが生まれた時のことを、皆川哲氏の話をもとに振り返ってみる。
清流でルアー釣りがしたい
「ブラックバスに凝っていた時、水面でハンドランディングした時にふと思ったんだよね。なんでこんな水の汚い所で釣りをしているんだろうって。僕は福島の田舎育ちだから、子供の頃は近くの川でハヤやヤマベ(ヤマメ)を追っ掛けてた。今度は清流でルアーフィッシングをしたい、しかもミノーで。それがチップミノーを作ろうと思ったきっかけだね」
1970年代の前半、丹沢の早戸川国際鱒釣り場でニジマスを釣ったのが、皆川哲氏のルアーフィッシングの始まりである。その時のルアーは『ブレットン』。何の変哲もない金属の塊を魚が血気盛んに飛び付いて来る姿に心を奪われ、皆川氏はこの新しい遊びの虜となる。その後、河口湖や山中湖へバス釣りに出掛けたり、当時大イワナ伝説で注目の的だった銀山湖には、奥只見シルバーラインが開通した年に釣行、熱の入れ方は尋常ではなかった。
ただ、すぐに行き詰まった。その当時のルアーはとても高価な代物。アルバイトの月給が約1万円の時代に、スプーンは1個700円、ラパラのミノーは実に1200~1500円もしたのだ。そこで、皆川氏は釣行と平行して自分でルアーを作るようになる。
初めて作ったルアーは拾った100円ライターを改造したもの。ガスを抜き、底の部分に穴を空けて鉤を付けた即席物だったが、投げるとバスが釣れた。河口湖でのことだ。この経験がきっかけとなり、皆川氏は本格的にミノー作りを始めるようになる。
「母の実家が製材工場で、小さい時からあまった木を削っていろんなものを製作していたから、抵抗がなかったんだよね。それがスプーンじゃなくて、ミノーを作った理由だよ。それにスプーンって金属をトントン叩かないとダメだから、アパートでそれをやると怒られるでしょ」
バス用のミノー、シーバス用のミノー、湖のトローリング用のミノー……、対象魚によってそれは変わったが、作っては試し、少し改良してはまた試す、このトライ&エラーの繰り返しの中で、皆川氏はミノー作りのあらゆるノウハウを学んだと言う。
そして迎えた1980年の半ば頃、皆川氏に転機が訪れる。それが冒頭の出来事。霞ヶ浦でバスを釣り、ハンドランディングするために水面を覗いた時のことだった。もっと水の綺麗な場所で釣りがしたいと思った彼の脳裏に思い浮かんだのだのは、故郷福島の里を流れる清流、そしてそこで自分と遊んでくれた渓流魚だった。
「当時、トラウトのルアーと言えば湖が主流で、渓流でやる人はそんなに多くなかった。やってもルアーはスピナーがメイン。ミノーなんて投げる人はいなかった。試しに北関東の川で7㎝のミノーも投げてみたけど、釣れないんだよね。子供の頃の経験で、餌を小さくすると魚が釣れるって知っていたから、小さいミノーを作ろうと思ったんだ」
餌釣り用のガン玉がミノーを変えた
それまで銀山湖や中禅寺湖などでトローリング用のミノーを作っていた経験をいかして、皆川氏は早速渓流用ミノーの製作に取り掛かる。5cmぐらいのものから小さいものでは1cmまで作ったというから驚きである。
しかし、実際に渓流に行って試してみると、なかなか上手くいかない。流れの緩いトロ場などでは泳ぐのだが、瀬で使うとすぐに水面から飛び出してしまうのだ。形を変えたり、方々手を尽くしてみたが駄目だった。そんな日々の中で、たまたま出掛けた狩野川のシーバス釣りが、皆川氏に大きなヒントを与える。
「狩野川のシーバスってポイントがシャローじゃないですか。潮が動いて流れが強くなるとローリングして飛び出しちゃうんですよね。それを見ていて、ミノーのヘッドを抑えないとダメだということに気がついたんです。僕はモトクロスをやっていたんで、バイクでも前輪さえ安定していれば後輪が左右にブレても平気だということを知っていました。この法則をミノーに当てはめればいいんじゃないかと思ったんです」
そこで皆川氏が取った方法は、ミノーを貫通するシャフトに重りを咬ませることだった。ご存知のように当時のハンドメイトミノーはこのシャフトが重りの役割も兼ねていた。そのシャフトに、皆川氏は餌釣りで使うガン玉を挟み込んだのだ。ガン玉は左右対象になるのでちょうど良かった。
「これで見事に流れから飛び出さなくなりました。後はどの位置で固定すれば泳ぎが一番安定するか、いろいろ試してみました。4㎝というサイズもそこから生まれたものです」
釣果のほうも皆川氏の期待を裏切らなかった。友人のフライマンと一緒に川に出掛けると、後から投げてもヤマメが次々と釣れた。そのミノーは友人たちから「皆川さんのちっちゃいミノー」と呼ばれ、それが今のチップミノーの原型となった。
その後、小さくても魚にアピールさせるためのシルエット(ヒラ打ち系のアクションをさせるための形状)や、岩の間をすり抜けるためにリップの形状を丸形(当時はみな角型)にするなど、現場でのトライ&エラーは更に続き、皆川氏のミノーは加速度的に進化していった。
「今では当たり前になりましたが、目玉の上に樹脂を垂らして半球形のアイを作ったのもこの頃のことですね。グラスアイが高くてとても手が出なかったので、考えに考えましたね」
チップミノー一つでスカジットの設立
その後、皆川氏の小さなミノーは彼の周りで絶大な評価を受け始める。「これだけ釣れるのだから販売してみてはどうか」という提案もあり、知り合いを通じてごく一部のショップに卸し始める。
最初に店頭に置いたのは、池袋のサンスイと上州屋。数は少なかったが、釣り人はこのミノーにすぐさま飛び付いた。
「作ったミノーを納品して家に帰ると、すぐに電話が掛かってきてね。全部売れたからまた納品して欲しいって言うんだ。面白かったのは、一人で10個も買ったという人がいて、何に使うのかって聞いたら、アユ釣りの最中に大きなヤマメにオトリを持ってかれちゃうから、それを退治するためだって言うんだ。アユの人って進んでるなって思ったよ」
そして迎えた1988年、皆川氏はスカジットデザインズを設立。名前の由来は、米国シアトルのスカジット・カウンティから取った。唯一の商品だったミノーも「チップミノー」と命名。ご存知のように「チップ」とは英語で「木片」という意味。小さな木片で作れるミノーだという意味を、この名前に込めた。
更に、チップミノーの噂を聞きつけた雑誌社(廣済堂出版『フィッシング』)が、皆川氏の渓流釣りを取材。その記事が掲載されると、チップミノーは一躍「時のミノー」となる。場所は長野県姫川支流の松川。早春で低水温であったにもかかわらず、皆川のミノーはその能力を発揮したのだ。
「当時の編集長に、こんな寒い時期に釣れるわけないと言われたものだから、むきになっちゃってね。自分では実績も出していたし。でもそれからが大変だったよ。1ヵ月に100個作れないんだから。純利益は確か3万5千円ぐらいだった。おかげさまで注文はたくさんきたんだけど、納品できなくて謝ってばかりいたよ」
困った皆川は、チップミノーの製作を知り合いから紹介された場所に一部委託することになるが、納品されたミノーは泳がないものばかり。仕方なくパートを雇い、自分の目の届く場所で懇切に指導、ようやくチップミノーは量産が可能になった。
「最初は売るつもりはなく、自分の趣味のために作ったもんだから、やっぱり量産は難しかったんですよね。でも欲しい人がいる以上、それに何とか応えたいじゃないですか。大変だったけど、頑張った甲斐がありました」
釣りよりも物作りが好き
その後、スカジットデザインズは、『JBSスプーン』『ナッツミノー』『ビートルナッツ』『ノーザンジャークベイト』など、徐々にアイテム数を増やし、現在のルアーマンなら誰もが知っているメーカーへと成長を遂げる。そのあたりの事情は、今さら語るまでもないだろう。
特筆すべきは、発売から二十数年経った今でも、チップミノーが現役だということだ。渓流ルアーマンにとっては、未だに欠かせないミノーの一つである。
「ありがたいことですね。僕は本来釣りよりも、物を作るのが好きなんで、それがこんなにも多くの人に愛されたことを誇りに思います。でも、商売は関係なく、使いやすくて釣れるものを追求したからこそ、チップミノーは生まれたのかもしれません。もちろん、そのコンセプトは今でも変わってませんけど……」
名品は時代を超えて愛される……。よく使われる言葉だが、このミノーの存在はそれだけでは決して語れない。このミノーが生まれなければ、「渓流ミノーイング」という言葉も生まれなかっただろうし、現在のように数多くの渓流ミノーが販売されることもなかったかもしれない。皆川氏が流れに投じた一つのミノーは、釣り人や釣り具メーカーの心にも一石を投じたのである。
「僕は毎年渓流が解禁すると、必ずチップミノーを使って釣りをすることにしています。そして一匹釣れると安心するんです。まだ釣れるって。多分、釣りができなくなるまでこれは続けていくんでしょうね……」
(Gijie2011年夏号に掲載)
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